ファンタジー

2005年12月1日 過去
人によって世界の見え方は違うんだなー、と思った。
ようは気の持ちようしだいということになるんだろうが、
どうにも僕にはそんな世界は現実に存在するとは思えない。
これまで20年以上生きてきてその存在を微塵も感じることのなかった世界の話。
ほとんどファンタジーみたいなものだ。

思えば似たようなことを高校のころ感じていたような気がする。
研修会か何かがあって、顔もよく知らない人が多い同級生と、
同じ大部屋で一泊二日ことになったとき、
その部屋で夜中中(よなかじゅう)他の人たちが思い出話をしているのを聞いていた。
もうほとんどどんな話をしていたか忘れたが、
よくある青春物語で、どこそこのだれだれが、
毎朝だれだれと一緒にジョギングしているとか、
だれだれが女の子と遊んでいるのを見たとか実は付き合っているとか、
あいつとあいつは仲が悪かったが、
あることをきっかけに親友になったとか、
なんかそんな感じの取り止めのない話でその人たちは盛り上がっていた。
時には知っている人の名前が混ざることもあった。

正直、そのときの僕にはそんな世界があるとはとても信じられなかった。
そんなもの、きれいな青春ドラマの中にしかないものだと思っていた。
僕の住んでいたような田舎ではなおさらである。
当時の僕は(今もたいして変わらないが)、
ろくでもない高校生で、毎日毎日退屈と勉強と、
自分の力のなさにへこんでいるだけのやつだった。

そんなときにそんな話を夜中中聞くことになったのだ。
ほとんど現実とは思えない話で、
よくできた小説のようにきれいな現実の青春物語。
自分と比較してへこまないほうがおかしい。

ただの学校と家との往復という生活を送らざるを得ない(と自分で決め付けた)
僕の生活とは絶対に交差することのないであろう生活。
こんな田舎じゃ何にもできないと思い込んでいた僕とは違い、
彼らは確実に『すばらしい青春』の中にいた。

僕は軽くへこみながら翌朝の研修を受け、家路に着いた。
その日は土砂降り。
僕の自転車は盗まれていて、
やっぱりそんな青春あるわけがないと、
半泣きになりながら家まで走った。

旅立ちの日に

2005年1月31日 過去
昨日のEZTVで、『旅立ちの日に』特集をやってた。
どこかの中学校の校長先生と音楽の先生が、
ばらばらだった生徒たちを合唱という手段で
絆を深めさせようってんで作った曲だそうだ。
今全国の学校で、卒業式で歌う曲の定番になっているらしい。
なんでも、生徒が自分からすすんで、
『旅立ちの日に』を歌いたいといって実現させているそうだ。

高校のころ、
なんかことあるたびにこの曲を歌わされていたような気がする。
卒業式とか合唱コンクールとか関係なしに。
あのころ、校歌はほとんど誰も歌詞を覚えていない
(僕もぜんぜん覚えていない)という状況だったのに、
なぜか『旅立ちの日に』だけはみんな何も見ずに歌えるという、
へんな状況だった。
多分、進学校だったので、音楽の授業が選択だったので、
校歌をまともに練習している人が少なかったことと、
何かのきっかけで『旅立ちの日に』の合唱をしたら、
生徒たちに結構評判がよかったので、
しょっちょう歌わせたのでこんな現象がおきたんだろう。

まあ、それだけなら別になんてことないんだけど、
たった一つだけ問題があった。卒業式である。
『旅立ちの日に』は、卒業式でも歌われることになった。
当然、校歌も。

卒業式の直前の練習でも、誰も校歌をまともに歌えず、
ブラスバンドの伴奏に思いっきり負けた、
いつもどおりの声の小さい辛気臭い合唱だった。
一人まじめに歌ってる教師の歌声にも負けていた。
対して、『旅立ちの日に』は、みんな水を得た魚のように
みごとな大合唱。そりゃそうだ。練習量がちがう。

それなのに、教師は誰も校歌のできに文句を言わず、
なぜかほめてた。2回ほど歌っただけで練習終了。

正直、僕は本番が不安だった。そのころ僕は二年生。
本番でもしこの練習どおりの現象が繰り返されたら、
見に来た人たちはどう思うだろうと。
『旅立ちの日に』と、校歌の出来のギャップに。
そして、僕の卒業式のときにも、
同じことが起こるかもしれないという不安に。

でも、誰もそんなこと気にしていないようだったし、
僕が校歌をちゃんと歌おうという勇気もなかった。

そんなわけで、卒業式本番も、練習と同じような感じの
合唱になり、あいかわらず校歌はだめだめだった。

卒業式が終わって、こんなんでよかったんかと一人で
悩んでいたら、ホームルームが始まり、担任が開口一番、
「すばらしい卒業式やった。来賓のみなさんも
口をそろえてすばらしいと言っていた。よくやった。」
僕はあ然とした。あんなんで本当によかったんかい、と。
そんなもん確実におせじだろう、と。

一年後、僕の学年の卒業式のときも、曲目は一緒だった。
ただし、校歌はブラスバンドの演奏のみ。
校歌斉唱ではなく、校歌静聴。
実は学校も気づいていたのな。配慮したんだろう。
でも、やっぱり少し恥ずかしかった。

とか書いときながら、3年の卒業式の記憶はあいまいだ。
演奏だけだったような気もするし、
最低の合唱だったような気もする。
このころは受験で卒業式どころじゃなかったし、
卒業式が終わっても、何一つ感動的なイベントが
あったわけでもなく、僕のクラスは昼の1時半くらいには
あっという間に解散してしまった。さみしすぎる。
盛り上がってる人たちもいるっていうのに。
一応僕は最後まで教室にいた。なんとなく。
いい思い出なんてほとんどなかったような気がするけど、
帰ったらそこで終わりのような気がしてなんとなく。
明日からも、受験勉強にくることになってたんだけど、
ほとんどの人とは今日でお別れだったわけだから。
ちょっとだけしゃべったことある人、
しゃべったことはなくても、顔や名前は知ってる人、
話しても何もできない僕にもときどきは話しかけてくれた人、
中学のころから仲良くしてくれた人、
そのほとんど全てがサヨナラである。多分、きっと。

家に帰って、もらったまんじゅうを食べながら、
高校生活と、これからの受験のことを考えた。
ちょっと死にたくなった。
最近物がよく壊れるので、悲しい。

中学のころ、僕はバドミントン部だった。
へたくそだったが、毎日練習にはまじめに参加していた。
そんなこんなで、あと2ヶ月ほどすれば引退という時期。
ラケットが折れた。ちなみにそのラケットは2本目。
ラケットでは有名なヨネックスのやつ。
スポーツ用品店の人に言わせれば、普通に使えば
バドミントンのラケットは折れることは無いとのこと。
でも、僕は折れた。それも、ものすごい中途半端な時期に。
のこり2ヶ月なんてあっという間である。
大会も、あと一個しかない。
高校いってからも続ける気が起きるほど上手くも楽しくもない。
ここで新しいラケットを買う気は起きなかった。
そんなわけで、残り2ヶ月の間、
僕は何本かラケットを持ってる上手い子のラケットを
借りたりしながら何とかしのいでた。
今までなれてたやつじゃなかったので、
使いづらかったが仕方が無い。

ちなみに、僕の部の同じ学年で、
ラケットが折れたことがある人は5割くらい。
誰も無茶な使い方はしていない。
普通にシャトル(羽のこと)うってたら
フレームにあたって折れた。
さすがに2本も折れたのは僕ぐらいだったが、
それにしたって折れすぎだと思う。
スポーツ用品店の人の言うことなんて
あんまり信用できないなと思った。

ついでに、高校三年のころ、学校指定の外ズックが、
体育の授業が終わる1ヵ月半くらい前に底が抜けて壊れた。
仕方が無いので買ったが、ほとんど使われないで、
今もきれいなまま置いてある。
何かにつかえばいいんだろうけど、学校の命令で
思いっきり大きな字で名前が書いてあるので、
普通にはくには恥ずかしくて使えない。
何か汚れる作業でもするときにでも使おうと思い、
ずっと保管してある。贅沢な話だ。

成人式2

2005年1月12日 過去
前回の続き。

2次会の会場に移動。2次会に参加しない人もいた。
できることならみんな参加してほしかった。

で、2次会。今度は普通にオードブルを囲んだ食事会だった。
やっと人とちゃんと話せると、僕はうれしかった。

でも、酒がでてきてしまった。
個人的にはしらふで話をしたかったが、
成人式ということで、まあ、しかたないか、と。
そんなわけで、普通に飲むことにした。

はじめのうちはよかった。
いろんな人の近況や、今の考え方なんかが聞けて、
ああ、成人式にきてよかったなと思えた。

でも、だんだん酒が回りだしたころになると、
どんどん場が騒がしくなり、一部の人は完全に酔っ払い、
やりたい放題状態になる。
僕はほかの人の会話に入れなくなり、
誰にに話しかけてもまともに相手にされないか、
会話が続かないかでどうしようもなくなった。

今思えば、いろんな人に話を聞くじゃなくて、
何人かにしぼったら、もっとちゃんとしゃべれたかもしれない。
たぶんそのほうが結果的によかっただろう。
でも、あのときの僕はもう会えないかもしれない
人ばかりだ、とにかくいろんな人と話さないと、と
あせっていたので、そんなこと考えている余裕はなかった。

このまま僕は半分孤立。
上に書いたような状態ですごした。
ちょっとだけ、2次会に行かずに誘われたボーリングに
行けばよかったかもと後悔したけど、もう遅い。
ボーリング組はもうすでにボーリングに行ってしまった後だ。

そんなこんなで2次会は終了。一応三次会もあったが省略。
2次会よりももっと酔っ払いが暴れだして、
さらにどうしようもなくなっただけだったので。

3次会の途中で、僕はもうこれはずっといても無駄だな
と思い、帰ることにした。あれだけもう会えないかも
しれないから最後までいようと思ってたのに、諦めてしまった。

まあ、僕が帰る前にもどんどん人は減っていったし、
あとに残るのは酔っ払いばかりで会話にならなかったし、
今帰ったほうが追加料金取られないってんで帰ることに決めた。

帰るとき、一人一緒に帰ってくれて、
その子の親が車で迎えにくるまでの間、30分ほど話した。
その30分が、その日の中でもっとも
有意義な時間だったかもしれない。
本当はもっと話をしたかったんだけどな。
車ぐらいもうちょっと待ってくれたら嬉しかったんだけど。

そんなこんなで、僕の成人式は終わった。
で、得た結論。「成人式に酒はいらない。」
いつも会うような人なら、たまに酒を飲んで楽しむのも
いいだろうけど、めったに会えないような人が集まって
いる場で酒は邪魔だと思い知った。

てなわけど成人式編おしまーい。
気が向いたんでもういっちょ成人式について。
というか、同窓会について。

そもそも同窓会ってのは何のためにあるのか。
僕は滅多に会えない人たちの近況を知ったり、
いろんな会話をして刺激を受けたりして、
楽しく過ごすためだと思っている。

僕にとっては、あれが最初で最後の同窓会になる可能性が
高かった。そんな人は多分いっぱいいると思う。
つまり2度と会えないかもしれない人たちにあってきたわけだ。

僕は無駄な時間を過ごさないよう、いろいろ考えて、
成人式に行った。

成人式自体はすぐに終わった。
普通に偉い人からの祝辞や、新青年代表のあいさつなど
普通の成人式だった。

僕は式が終わったあと、
普通に自由時間というか、立食パーティーみたいに
好きなように時間を過ごせると思っていた。

しかし、ゲーム大会がはじまったり、
一部の層が考えたため、やけにジャンルがスポーツ系や
当時の少年ジャンプにかたよったクイズが出されたり、
ものまねやら、あげくの果てに中学時代のギャグまで
やらされたりと(僕は当たらなかったので全部避けれた。)
はっきりいって僕にとっては
どうでもいい時間が過ぎていった。

他の人は楽しかったのかどうかは知らない。
僕は、盛り上げようとしてるのはありがたいけど、
これはちがうんじゃないか、つまらん。何て思いながら、
こんなことしてる場合じゃない、早く終わらないかな、
とあせってた。あくまで僕の意見なので、
本当はみんなすごい楽しくって大成功だったのかもしれない。
何も運営に関わっていない僕がどうこう言っちゃいけないわな。

で、そのパーティーが二時間半ほど。
その後、二次会があるってんで、参加した。
そりゃまあ、参加しないと。
それまでの時間、まともに人と会話できなかったので、
これに参加しないと、何しにきたのかわからない。
そもそも、この集いから抜け出した段階で、
もう会えないかもしれない人たちがたくさんいるのだ。
途中抜けはできない。したくない。

そんなわけで、二次会は、別会場で行われることになり、
移動することになった。

続きはまた今度。次は酒が入り、僕の予定はますます崩れる。

話題性

2004年12月6日 過去
ちょっと前のさんま御殿で俳優の誰かが、
「先輩からもっと遊べ、と言われたが俺はそういうのは向いてないんで遊ばなかった。」
と言っていた。
芸能人の言葉をそのまま信用はできないけど。

「酒と女は芸の肥やし」って言葉がある。
ストレートにとるのはちょっと違うと思うんで
僕なりの解釈をしてみる。以下解釈。

遊んだり酒を飲んだり、恋愛したりすることは、
それだけで話題づくりになるし、
遊べば遊ぶほど話題が増えていく。
つまり、自然にネタが蓄積されていく。
また、いろんな場で演技したり会話したりするときに、
実際にその体験をしているほうがよりやりやすいし、
よりよいものになる可能性が高い。
また、他人とのコミュニケーション能力の向上にもなる。

と、まあこんな感じだろうか。
まあ、例外はいくらでもいるけど、あくまで一般論だから。

そんなことをふまえたうえで、自分のことについて考えてみる。
自分にはぜんぜん話題がない。
誰かと会話しようとしても、すぐに会話がとまるのは、
おそらくこれが原因なんだろう。

高校のに入ったばかりのとき、
僕は周囲の会話の話題にまったくついていけなかった。
周りは知らない人だらけ。何を話したらいいかなんて
さっぱりわからない。
それでも、相手の振ってきた話題にはできるだけ
答えようと努力したが、
当時の僕には何一つまともに会話できる話題がなかった。
スポーツも興味ないし、まだ音楽にも興味がなかった。
ほかの話題にもついていけずに、
そのうち周りの人たちが部活を始めたり、
仲良くなってきたりで、
僕にはついていきようのない話題ばかりが話題の中心になった。

なら、お前も部活入ったり、いろいろ調べてみるなり
すればいいじゃないかと思うだろうが、
運動部には、過去の経験からやってもずっと補欠になるだろう
と思ったし、文化部は楽しそうなのがなかったり
何か怖かったりしたので結局入らなかった。
付け焼刃の知識じゃ通用しなかったし、
成績が信じられないほど下がったりで、
頭が混乱してものすごい沈んでた。
その後も、祖母の入院、弟の友人の不良化、
中学時代の友人が部活に入ったり、
新しい友人を作ったりで帰り道は大体一人だったりした。

誰ともまともに会話できないなんてことはなかった。
普通に話せる人とは話せた。
だけど、学校ではなぜかうまく話せなかった。
この違いは何だとずっと考えてたけど、
ぜんぜん結論はでなくって、
ますますわけがわからなくなっていた。
今では、話題があるかないかってのが
けっこう大きかったのかもなんて思う。
ま、絶対にそれだけじゃないけど、うまく言葉にできない。

そんなわけでかどうかは知らないけど、
僕はクラスではほとんどしゃべらなくなった。
本当に全部が嫌になってた。ただ、友達が欲しかった。
たまに話しかけられると嬉しかったけど、
結局間がもたなかったので結果は同じだった。
いい人はいた。でも、僕はうまく話せなかった。

ほとんど毎日孤独だった。遊びの誘いもなかった。
よく考えたら、中学のころもほとんど遊びに誘われなくて、
強引についていっていたことも思い出し、
僕には本気で友達がいないんじゃないかともっと鬱になった。
遊ばないから話題が増えない。
話題が増えないから会話ができない。
会話ができないから友達ができないのデフレスパイラル。
ついでに成績も赤点の連続で、今も将来も見えなかった。

完全に僕は腐っていた。

友達の作り方

2004年9月21日 過去
一時期こればっかり考えてたことがあった。
新しい環境にまったくなじめず、
つらくて仕方が無かったころ、毎晩シミュレートしてた。
自分に友達ができない理由は何なのか、
まわりの人たちはなぜ簡単に友達を作れるのか、
他の人にできて、自分にできない理由は何なのか、
とにかく友達を作りたくて仕方が無かった。

相手がこうきたらこう返そう。
わざと物を落としてみよう。
体育の時間がチャンスだ。
などなど、いろいろ考えてた。

そして行き着いた結論は、
僕は他人と共有できる話題が何も無いから
会話のきっかけが存在しないってことだった。
普通の子なら誰だって興味があることに、
僕はまったく興味が持てなかった。

特にスポーツ系の話題は何一つ面白いところがなく、
部活に入ってもいないから部活の話題もなく、
恋愛どころじゃない状況なのでそれもない。

ついでに、何か一つこれには強いって話題も無い。
そのうえ、話し方もヘタで、早口ですぐかむから、
何を言っても上手く伝わらない。

そんなわけでいまだに結論が出ない。
昨日書いた野球のやつで、
僕が監督になれば強いチームが作れるとか書いたけど、
守備の基本もわかってないやつが監督なんか
できるわけないことに今気付いた。
特に内野の練習なんて、一回もしたことないからわかんないし。
何言ってんだ、僕は。
小学校のころ、僕は少年野球チームに入っていた。
とはいっても、別に野球が好きだから、野球がしたいから、
なんて理由で入ったわけじゃない。
ただ、そのころの友達がたくさん入ったから、
入らないとあんまり会えなくなって、
そのうち遊べなくなるかもしれないと思って入っただけだ。

正直、運動音痴でレギュラーになんか
なれそうもないこともはじめからわかっていた。
僕より運動神経のいい子が9人以上同学年で入って
いるんだから、こりゃもうどうしようもないと思ってた。
僕はただ、遊びたいだけだった。

練習は結構厳しかった。毎日毎日放課後に練習があるし、
土日も練習か練習試合だった。
他のチームはどうだか知らないが、
僕らのチームは、少数精鋭を鍛えることが中心の
練習メニューだった。
おかげで、そこそこ強くて、地区大会では優勝もしてた。

でも、このシステムが僕にとって最悪の方向に働いた。
四年生のうちはまあ、仕方ないと思ってた。
ノックなんか、十日に一回あったらラッキーだと思ってた。
バットも、素振りさせてもらえるだけで嬉しかった。

でも、そのうち状況が変わった。
やっぱり上手い子は上手いし、次々と新しい練習メニューを
与えられていた。僕はといえば、ずっと球拾いをしてた。

五年生になるころには、上手い子は練習試合で
使われるほどになった。六年生は夏休みの途中で
引退なので、そのためにも新戦力を鍛えていたんだろう。
僕はといえば、ついにノックも
受けさせてもらえなくなっていた。

六年生が引退し、僕らの世代になった。
上手い子は、そのままレギュラーになった。
そして、練習メニューは完全にレギュラー中心になった。
僕は球拾いとノックのときのボール渡しを、
毎日毎日練習のほとんどそれをやらされてた。
ノックもバッティングもほとんどさせてもらえなかった。

今冷静に考えると、ノックもバッティングも
ほとんど練習させてもらえなかったわけだから、
野球がうまくなるわけがない。
よくフリーバッティングのときに、
外野のさらにうしろで球拾いをさせられてたが、
球なんか飛んでこないし、飛んできても勢いの落ちた
しょぼいゴロだった。これをノック代わりとでも
思っていたのだろうか。

(ちなみにフリーバッティングってのは、実戦のように
守備を固めて、ピッチャーが投げるうちやすい球を打つ
練習のことだ。打ったら走って、交代。
守備練習も兼ねられるからよくやってた。
僕はこの練習で打席に立ったことは多分2,3回しかない。
多分お情けだったんだろう。
サードにぼてぼてのゴロを打ったりして終わった。)

試合や練習試合では、ランナーコーチをやってた。
やりがいがない上、別にいなくてもかまわないし、
攻撃中もベンチで休めないしで、
試合中はずっと暑い中声を張り上げてないといけなかった。
覚えたのは、少年野球でのみ有効なベンチの作戦だけだった。
そんなことより、僕はバットを持って打ちたかった。

六年生になっても、同じような日々は続いた。
このころはちょっとおかしいんじゃないかと思ってた。
いつまで僕がボール渡しをやっとるんだと。
球拾いならまだわかる。
でも、ボール渡しなんて、球拾い以下のつまらん仕事だ。
球拾いのほうが、まだボールをとりにいったりして
動けるぶん、楽しい。

僕がボール渡しをやってる間、四年生や五年生は
楽しそうにノックを受けていた。
トスバッティングなんかもやっていた。
何だ、この扱いのちがいは。
僕のころにはこんなにいい扱いはなかったぞ、
なんて思ってた。

六年生のほんとの最後の2週間くらいになって、
ようやく練習試合にでれた。それまでもほんとの
たまーに、もう試合が決まりかけてて、
あと1回守るだけってときに
ライトででたことはあったけど、
それとは別に2試合ほど。とはいっても、
5年生中心チームのお情けメンバーだったが。
恥ずかしいって思いと、嬉しいって思いが半々だったな。
たしか七番で外野だったかな。
とはいってもろくに練習をさせてもらえていない僕は
何をしていいかもよくわからなかった。
ま、ボールは飛んでこなかったけど。
確かヒットを一本だけ打ったっけ。

はっきりいって、何してたんだろう、僕は。
ぜんぜんおもしろくもないのに毎日毎日、
まったく練習もさせてもらえなかったのに。

これこそまさに無駄な努力の典型だ。
得たものといえば、野球のルールと作戦だけ。
野球なんてつまんない。

話は変わるけど、今僕が少年野球の監督をしたら、
かなり強いチームが作れる気がする。
少年野球で有効な作戦は頭の中に入っているわけだから。
そのかわり、補欠の子達は最低の目に会うことになるけど。

過去2

2004年7月15日 過去
振り返ってもいいけどほどほどに。
とらわれすぎると何もできなくなってしまう。

過去があるから今があるのは本当だけど、
今があるから未来があるとはいえないんだな。

つまり、希望はあるってことやね。ポジティブに。

灰色の過去からは、逃げ続けなくちゃ
いけないかもしれないけどさ。

・・・と、前こんなことを書いた。
今の僕は少し考えが変わってるみたいだ。

過去にはとらわれなければならない。
それがどんな過去であろうとも。
傷つけ、傷つけられ、喜び、悲しんだ過去。

それらにぜんぜんとらわれないようにしてたら、
痛みが何もわからない人間になったしまう。

痛みなんて、本当はないほうがいい。
でも、痛みをしらなければ、人に優しくはなれない。
何にもとらわれず、へらへら笑っているだけじゃ駄目なんだ。

天才的にやさしい人ではないやさしい人は、痛みを知り、
上手く人を傷つけることができる方法も知っている。
逆に言えば、ものすごい最低の人になることもできるのだ。

でも、ならないのは、痛みがブレーキをかけているからだ。

人の痛みを考えないで生きている人は、
自分の知らないところで誰かを傷つけていることが多い。

僕は過去を捨てない。僕の感じた全ての痛みを忘れたくない。
僕はほとんど偽善者だ。でも、最低のやつにはなりたくない。

祭りの準備 (CCCD)

2004年6月16日 過去
ガガガSP コザック前田 CD ソニーミュージックエンタテインメント 2004/05/26 ¥1,223

文化祭の準備か。今思えばかなり大切なイベントだったんだわな。
僕がそれに気づいたのはつい最近だわ。
それも、人から聞いて。

文化祭の準備をきっかけに、今までどんなまとまりのない
クラスであっても、協力して準備をすすめていくうちに、
今までよりもみんなが仲良くなるものらしい。

今まで話したことがないような人や、
クラスで浮いていたような人も、
これをきっかけに、打ち解けられるものらしい。

意味もなくみんな盛り上がって、ほかのクラスよりも
いいものを作ろうと、一丸になるものらしい。

いいな。みんなそんないい文化祭をやってきたのか。

僕は高校一年のとき、ほとんど完全にクラスから浮いていた。
毎日、誰とも一言もしゃべらずなんてこともしょっちゅうだった。
部活にも入らず、成績もがた落ち。どうしようもなかった。

そんなこんなで、文化祭の季節がやってきた。
僕らの学校では、クラスだけでなく、
一年から三年までをふくめた、色で成績を競っていた。
また、文化祭の準備期間が4日くらいしかなく、
さらに、文化祭の次の日に運動会があるという
意味がわからない強行日程だった。

文化祭では、三つの係にクラスが分けられた。
クラスに展示物を作る係、舞台発表をする係、
そして、色別の応援垂れ幕を作る係。

僕は、クラスの展示を作る係になりたかった。
舞台発表なんてやりたくなかったし、この係なら、
みんなと話せるいい機会になるんじゃないかなんて思ったから。

でも、結局、僕は垂れ幕を作る係になってしまった。
この係に、ほとんどなり手がいなく、
クラスで3人は出さなきゃいけなかったので、
誰もやろうとせず、なぜか僕に白羽の矢が立った。

この垂れ幕つくりは、自分のクラスから遠く離れた体育館で、
まったく面識のない上級生数人と、大きな布に
絵を書いていく作業だった。上級生がやる気なさげに
デザインをきめて、僕たちはそれにしたがいながら、
暗い体育館でほとんどしゃべらず、黙々と絵を書くことになった。
体育館は、塗料のにおいが立ち込めて、すごいくさかった。

ちなみに、僕のクラスからは、ぼくと、あと女の子2人。
その子達は、2人でいっしょに垂れ幕の色塗りをしていた。

ほかの色の人も同じように退屈そうに作っていた気がする。

たまにクラスにもどると、みんな楽しそうに準備をしていた。
本当はこの空気の中にいたかったのに。
みんなが何を作っていたかなんて忘れてしまった。

結局、何にも面白いことがないまま、垂れ幕は完成して、
文化祭を迎えることになった。僕らの書いた垂れ幕は、
校舎にかけられて、結構目立ってた。

このときの文化祭って、僕は何をしていたっけ。
思い出せない。ただ、体育祭実行委員でもあったので、
文化祭の途中でかり出されて、
グラウンドの草むしりをさせられていたことだけは覚えてる。

あとは、文化祭ライブを見に行ったくらいか。
ステージの上の人たちがうらやましかったことを覚えてる。

文化祭の最後に、結果発表があった。
展示や、舞台発表、垂れ幕などに順位がつけられた。
僕は、せめてこれくらいはいい評価が欲しかった。

でも、垂れ幕の結果はビリだった。ビリって。

結局、何の結果も残せず、誰とも仲良くなれず、文化祭は終わった。
本当はもっとみんなと仲良くなれるはずだったのに。

はー、ろくなことなかったな。
この曲になぜか感動してしまった僕は、
こんな過去があるからかもしれない。

この歌で歌われているような気分に
なりたかっただけなのかもしれない。
結局この歌の主人公はむくわれなかったんだけど、それでも。

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